ティーンネイジャーとの接し方
この間の長女と一緒にやっているファミリーカウンセリングでちょっとふに落ちたことがありました。
それは、この間の投稿でも書いた「アカウンタビリティ」について。
反抗期だからしょうがないとは言え、約束事が守れなかったりあまりにも裏切られたと思ってしまうことも多く、長女との信頼関係が崩れ落ちてるって話の時なのですが
カウンセラーが
「リリーがもっとアカウンタブルになればいいのね」
とさらりと一言。
おぉー。
そうだったか。
そういう時にも使えるんだー、この言葉は、と思いました。
ティーンネイジャーの頃から、アメリカでは「アカウンタブル」であることを求められるってことかあ。大人の世界だけじゃないんだねー。
政治家とか企業のトップとかに偉い人に求められるものかと思ったら、実は高校生のレベルでアカウンタブルになることをアメリカではもう既に学んでいるんですね。
ふむふむ。
日本の政治家とか、見習って欲しい。
とことん「釈明する」べき時に、いきなり辞職したり逃げる方向を取ってしまうのはやっぱりされる側としては絶対に違うと思いますよね?頭を下げればいいってもんでもないし、彼らには私たちを納得させる責任があるわけで。
みんな、人生に納得したいんですよ。そこが全てのスタート地点じゃないですか。
でーもー。
そもそもこの「アカウンタブル」に近い言葉がない(と思っている)日本では、言葉がないから、行動にもできないってことで、結局はそういう文化が生まれないのでしょうね。
とは言っても、私たちの家庭内での「アカウンタブル」とはそんな大それたことではないのです。
もう16歳になるのだから、自分の行動に責任を持って親に聞かれることはしっかりと答えられるようにしてほしい、というとっても単純なことなんです。
例えば、おうちに遊びに行くお友達がいたとして
「〇〇ちゃんのラストネームはなんていうの?」
とか
「〇〇ちゃんの親は家にいるの?」
とかね。
そういうどうってことじゃないことなのに
「知らない」
とか
「わからない」
とかって言われるとそりゃあ、いきなり不審に思うわけですね。
えぇ?
そんなことで?
と思うでしょ?
でも信頼関係ってそういう小さいことの積み重ねですからね。
そもそも人生って、そんな劇的なことなんてないんです。
毎日が一秒一秒の積み重ねですからね。
説教臭くなってきますが、詰まるところは、お友達のラストネームぐらい答えられるようにしておけ、とそれだけの話なんですが。
でも、そんな簡単なことができないのであれば、やはりそこに怪しいものがあるわけで、こんなことをしているといつまで経っても新しい信頼関係は築けません!とキッパリとカウンセラーに言われてしまうことになるんですね。
こういうのって、男女の関係にも言えているなと、思わず思いました。
アメリカのカウンセリング
アメリカでは結構小さい頃から何かとカウンセリングっていうのをやります。
日本だと最近でこそ色々と「心療所」ができているのを見かけますが、それでもまだまだ通うことに前向きでない場合が多いような感じがします。
うちは子どもたちがそれぞれ11歳、8歳、5歳って感じの時に子どもたちの父親が家からいなくなったので、それ以来、子どもたちのカウンセリングや私のカウンセリングなども色々とやっています。
学校でも離婚家庭の子ども対象に特別クラスが設けられる場合があって、算数とか社会とかとるべきクラスの途中で抜けて、そういう特別クラスに行ったりしていたことがありました。
私的には、算数とか社会とかそういうものの方が大切じゃない?と思ったりしましたが、子どもが取りたいと言っていたし(算数を取らないでもいいので)、仲のいいお友達も取ってたりしたので、取っていた時期もありました。
子どもによって良し悪しはあると思います。
ずーい分と前ですが、元夫と結婚した時にも、カップルでカウンセリングを始めました。ほとんど娯楽のような感じで。
ニューヨークでは特に、カウンセリングなどはごく当たり前のことで、若い人たちから高齢者まで、老若男女が普通に通っているんですね。カウンセリングに行かない人は、サイキックで見てもらうっていう感じ。両方やってもらう人も多くいます。
今はニューヨークを離れてしまっているので、詳しいトレンドはわかりませんが、少なくとも私たちがやっていた時は、そんな感じでしたね。
アメリカっぽい感じもしないでもないですが、喧嘩したいことや納得が行かないことがあったりしたら、カウンセラーを前に(レフリーとして)お互いが言い合うわけです。
第3者(カウンセラー)がいてくれるので、それほど感情的になることもないし、それでいて、お金も払っていると思うと真剣になるわけだから、真面目に取り組めるんですね。
だから、かなーりいい感じで「話し合い」ができる感じがします。
アサーティブコミュニケーション
そういうのをアメリカでは「アサーティブ」なコミュニケーションと言うのですが、これができるようになったらもうどんな関係でも問題なんてなくなるんじゃないでしょうか?
特にティーンネイジャーとの対決は、本当にこの「アサーティブコミュニケーション」は大切だと思います。
感情的にならずに自分が言いたいことを言いきるコミュニケーションのことです。
「アサーティブ」というのは、直訳すると「断固とした」とか「自信のある」という意味なのですが、「ドーンと構えた」という意味もあります。
でも一方的に自分の主張だけを言うのではなくて、あくまでもそれを聞かされた相手の気持ちも考えてしっかりと相手を尊重しながら意見を言い切ることを言います。
感情的にもならないし、聞いてる方もディフェンスを構えなくても済むのですね。
感情はコントロールできる
私は結構、カウンセリングに通うのも大好きで、すっごい効果があると思っています。たくさん色々なカウンセリングやコーチングを受けてきたので、自分でも資格を取ってしまったぐらいですから。
ただねー、自分のこととなったら、やっぱり感情的になっちゃいますけどね。
なかなか人生一筋縄では行かないものです。とほほ。
今はもっぱら「ファミリーカウンセリング」という感じで長女と一緒に受けているのですが、アメリカの「心理学」は非常に進んでいるなと感じます。
みんなよく勉強しているな、というか。感情とは感じるものだから、頭ではコントロールできないものだと思っている人が多いかもしれませんが、意外にも感情とは、結構どうにでもなるものなんだな、と私も学ぶことができました。
ただ難しいのは、感情とは対人関係の中で起きるものがほとんどなので(人生で起こる問題も対人関係によるものがほとんどですよね!)、自分の感情だけを一人でコントロールしても相手がいる場合は、邪魔されて乱される場合がある、ということですよね。
もっとも、人間は一人で生きているわけではないので、一人でコントロールできても何の意味もないのですが。
これはよく子育ての時にも言いますが「子どもがいい子だったら、私もいい親になれるのに」という場合と同じです。
昔、安室奈美恵ちゃんの元旦那さんが笑ってる赤ちゃんを抱っこしていいパパぶりをアピールしていたポスターがありましたが、笑ってる赤ちゃんは誰でも抱っこができるのですね。
詰まるところは、泣いてるベイビーをどう扱うことができるか?というのが本当の親の出番であり、いい親とはそういう時にしっかりと対応できる人たちのことを言うのだと思います。
これって今、気がつきましたがコピーが微妙ですね。言いたいことはわかりますが、その家庭でいろいろな事情もあるだろうし、そこまで決めつけなくてもいいのかなと思ったりします。
またうちの場合になってしまいますが、子どもの父親はここ10年ぐらい遠く離れたところに住んでいるので育児をしてきたとは全然言えません。
でも、思いっきり父親です。
結果あまり深くは考えない
で、話を戻しますが、反抗期の子どもとのバトルは、本当に毎日疲れるってことなんですよね。それに尽きます。
元々私たち親娘は仲がいいので、カウンセラーの人からは
「あなた達って喧嘩しているのか、戯れているのか、わからない。面白い関係ね!」
と言われたりします。
実際に私たちのカウンセラーが受けているクライアントたちはもっとヘビーな問題を抱える人たちが多いらしく、私たちのことは、なんだか「微笑ましい」とさえ形容します。
私たちにとっては、結構深刻だったりするんですけどね。世の中、上を見たら切りがないけど下を見ても切りがないってことです。
しかしつくづく思いますが、思春期の子どもたちの問題は、結局は大人がどこまで大きな心で対応できるかどうか?でもあるわけで、大人の器の問題だったりすると思います。
だから、私もカウンセラーが「微笑ましい」ということでもギャーギャー騒ぎ立ててしまっているのであれば、それは私の親としての器が小さいんだなー、と思ったりして。
私としては約束を守ってもらえなかったりすると「裏切られた」と思ってしまうし、やっぱり一度信頼関係が崩れてしまうと、それを修復するのは大変だなと絶望的に思えてきます。
私に反抗期がなかっただけに、自分で想像できないから余計にそう思うのでしょうか?
よく娘は私にそっくり!と言われますが、中身は全然違うんですよ。良い意味でもあるのですが。
まあよくある話なんでしょうが、これもある意味長女にとっては成長過程の一つかも、ぐらいに思ってあげたら彼女も変わってくるのかな。
特に今の時期は、コロナで家にいることも多いし、ティーンネイジャーたちもどこにも行けなくて本当に退屈極まりないと思います。
ある意味かわいそうなんですけどね...
という事で、6月14日は長女は16歳になります。
お誕生日の前に、こんな愚痴の投稿になってしまいましたが、これもある意味、記念に。
本来はスィート16でちょっとは盛大なパーティーでもしようかなと思っていましたが、コロナのせいで、結局は家族だけでお祝いします。
こんなお誕生日もあったな、と将来幸せな記憶として思い出してくれたらいいな、と思ってます。